健康コラム
効果的な保健事業への取り組み



東京大学未来ビジョン研究センター
データヘルス研究ユニット特任教授 古井祐司氏
効果的な保健事業への取り組み
−古井祐司氏(東京大学未来ビジョン研究センター データヘルス研究ユニット 特任教授)−
「保健事業カルテ」で抽出した現場の工夫で保健事業は大変身
健保組合をはじめ各保険者は、2026年度に第3期データヘルス計画の中間評価・見直しを控えている。2015年の第1期計画から10年以上が経過しているが、これまでの計画をどう見直し、どのように進化させていけばよいか悩む保険者も多いのではないか。また、保健事業の実施率や成果が全国的に頭打ちとなる中、どのような条件でどの手法が効くかを明らかにする取り組みが求められている。
そこで、現場で生まれた保健事業の工夫を抽出するツールである「保健事業カルテ」を開発した東京大学未来ビジョン研究センターデータヘルス研究ユニット特任教授の古井祐司氏に、保健事業カルテの狙いや特徴、具体的な活用方法、これまで集まった知見を伺った。古井氏は、特定保健指導の実施率や内臓脂肪症候群該当者割合といった「定量データ」だけでなく、効果を上げる工夫を「定性データ」として明文化し、保健事業を進化させる知見を共有していく重要性を強調した。
科学的根拠に基づく保健事業で成果を上げる
これまでの保健事業は、科学的根拠が十分でなく、既存事業の「焼き直し」になりがちでした。
データヘルス計画はPDCAサイクルを回して運営しますが、従来は事業の進捗管理に重きが置かれて、同じことの繰り返しにとどまり、十分な進化をしていませんでした。結果として、データヘルス計画は「作って終わり」になり、さまざまな健康課題に十分対応できないという課題がありました。
実際、同じ特定保健指導事業でも、実施率が倍以上異なる健保組合があります。これは、「対象者のリスク」よりも「環境」や「やり方の違い」による差であり、まさにEBPM(根拠に基づく政策立案)の重要性を示しています。
そこで、今後はどのような条件下(事業所の特性、健康課題)で、どのようなやり方(方法・体制)が効果的なのかを科学的に検証する必要があり、そのためのツールとして「保健事業カルテ」を開発しました。国としても、「骨太の方針2023」の中で「エビデンスに基づく保健事業の推進」を明記し、2025年12月に経済財政諮問会議が決定した「EBPMアクションプラン2025」では、現場で実施している施策を科学的に検証し、それを保険者間で共有していく方針としています。科学的な検証により、健保組合の限られた人員で成果を最大化する効率的な事業運営が可能になります。

実は、データヘルス計画にはこうしたEBPMを導入しやすい理由があります。それは、標準化が始まっていることです。どの健保組合でも、データヘルス計画の構造(計画様式、評価指標)や運営のプロセスが同じ枠組みで進められているため、保健事業の科学的な検証も進めやすいのです(図1)。
保健事業カルテの狙い 現場の工夫を明文化する
保健事業カルテの具体的な活用法として、特定保健指導を例にご紹介します(図2)。

カルテの左半分はデータヘルス計画(データヘルス・ポータルサイト)から転記します。まず左上に、当該保険者における健康課題(例:高血圧の医療費が高い、喫煙率が高い)と事業目標(例:高血圧を予防する)を記載します。その下には、目標の達成度を測るアウトカム指標(例:高血圧の有所見率、喫煙率)と、事業の実施量・率を測るアウトプット指標(例:特定保健指導実施率)を転記します。
右側は、アウトカムを上げるための方法・体制の工夫、アウトプットを上げる工夫を、上段と下段に分けて記載します。
こうして左側の定量データ(アウトプット、アウトカムの実績値)と右側の定性データ(アウトプット、アウトカムを向上させる工夫)を合わせて分析することで、健康課題を解決するノウハウを抽出する仕組みです。カルテは、左で何が起きたか(定量)を示し、右でそれはなぜ起きたのか(定性)を整理することで、成功要因を可視化します。
保健事業カルテでは、保険者(委託事業者を含む)が現場で工夫している点とその理由、良かった点・苦労した点を記入します。その後、専門家が「保険者外来」という形で保険者と面談し、記載内容を深掘りしていきます。
「保険者外来」で意見交換するポイントは3つです。1つ目は方法です。例えば、保健事業の実施率を上げるために多くの保険者で参加の「勧奨」を行っていますが、どのタイミングが効果的かは明文化されていません。
2つ目は体制に関して。事業主との「連携」、健診機関との「協力」といった文言が計画書には頻出しますが、何のための連携か、課題を共有するだけか、評価指標を決めてアクションを共にするか、ツールを用いるか、といった具体的な要素が関係機関の協力を引き出すためには不可欠です。
最後に「なぜその方法・体制を取ることにしたのか」です。「適用事業所が多数で一気にコラボヘルスができないため、肥満者が多いモデル事業所から保健指導を試行した」「被扶養者の実施率が組合平均より低いため、健診当日に勧奨可能な健診機関を探した」など工夫した背景が分かると、同じような悩みを持つ保険者への横展開に役立ちます。これらの要素を整理することで、他の保険者でも再現可能な成功パターンとして知見化できます。
このような保険者の皆さんとの意見交換を経て、最後に専門家が講評する流れになります。面談後の加筆で記載量は3割くらい増えますね。第三者の指摘を受けることで、それまで当たり前だと思っていた「経験」や「現場の知恵」が初めて明文化されるのです。
カルテで抽出された現場の工夫
これまで保健事業カルテで抽出されたアウトカムやアウトプットを上げる工夫の例として、特定保健指導に関してご紹介します。
まず、健診当日の勧奨や初回面談が特定保健指導の実施率を2割ほど向上させていることが分かりました。まだ限られた健保組合のデータですが、対象者の意識が高いタイミングでの働きかけや、健診から保健指導へのリードタイムが短いほど行動に結び付きやすいという要素(初動のタイミング効果)が想像できます。被扶養者では、専門職による対面での結果説明により、実施率の目標を達成している健保組合が有意に高くなっています。
次に、特定保健指導を委託した事業者と脱落者リストを共有し、事業所から声掛けする方法に関して、リストを共有する期間が1カ月よりも2週間のほうが脱落防止に有用(短いフィードバックループ)であることも分かりました。
また、健診機関との連携についても、さまざまな工夫があります。契約健診機関と特定保健指導実施率およびそれに伴う売上目標を共有(インセンティブの共有化)し、一緒にそれを目指すことで健診機関のモチベーションアップを意識する。さらに、多忙などを理由に帰ってしまう対象者が多いため、健診機関の医師や看護師から対象者への働きかけ方の「Q&A集」を作成し、特定保健指導の実施率を向上させていました。
保険者協議会、自治体国保がカルテを活用
保健事業カルテはノウハウ抽出に活用しますが、データヘルス計画の評価・見直しにも使えます。毎年度の事業評価や翌年度以降の改善に活用してください。
東京都保険者協議会では、2021年度から年に数保険者を対象に、東京大学が関わって保健事業カルテによるノウハウの抽出を支援してきました。これまで実施した保険者の保健事業カルテは、「特定健康診査」「特定保健指導」「生活習慣病重症化予防」などカテゴリーに分けてホームページで公開しています。
これは、個別に行われていた工夫が同一様式で蓄積され、分析可能な知のデータベースとして機能し始めた点で画期的です。知見の横展開が一気に加速することも期待されます。例えば、現在は各保険者とも特定保健指導のやり方はほぼ同じですが、それでは十分な成果は期待できません。職場の働き方や健康課題が似ている保険者の知見が共有できれば、課題解決には有用です。
なお、国民健康保険では、2020年度から東京大学が提供している「都道府県向けリーダーシップ・プログラム」の参加自治体でカルテを活用しています。これまでに約300区市町村が取り組んでおり、一部の知見は既に学術論文化し、全国に共有されています。
保健事業を進化させる今後のアクション
これまでに健保組合で保健事業の工夫を保健事業カルテで抽出したのは、まだ一部にとどまっており、さまざまな業種、職場の働き方、また多様な健康課題に対応する事業を創るのはこれからです。
また、健保組合が独自に考え、実行している工夫や改善策は、形式知化されていないことが多く、それぞれ特定の健保組合や状況に限定されたノウハウです。そこで、複数の工夫を一般化し、他の健保組合でも再現可能な「知見」とすれば、全国に転用できます。そのためには、定量データを踏まえて、定性データである工夫を体系化する必要があります。これにより、効果の裏付けがある知見となります。
工夫を知見とする具体的なプロセスとしては、・健保組合の現場で生まれた「工夫」を保健事業カルテで収集・それらを分析し、組合横断的に共通点・成功要因を抽出・「知見」として整理し、共有の3つに整理されます。
ただ、一般に健保組合の皆さんは日常業務に追われて、現場の工夫を意識していないことが多いですね。頭の中にある素晴らしいノウハウだけではいつまでたっても知見とはならないので、業務の改善や新任者へ引き継ぎしにくいのです。健保組合の工夫を引き出し、暗黙知を明文化することが、保健事業カルテの大きな狙いです。
実は、暗黙知から形式知への変換は、保健事業の質向上だけではなく、それ以上の発展につながります。近年の生成AIの進化により、医療分野では業務の効率化や質向上が期待されています。予防分野でも、事業所の特性や健康課題に応じた保健事業がパターン化され、質の高いサービスが受けられる「標準予防」が実現することは間違いありません。医療では標準的な電子カルテや診療の標準化がAI適用を可能にしますが、予防ではデータヘルス計画の標準化や保健事業カルテによる明文化でそれを実現します。
また、健保組合は公法人であり、知見の共有がしやすいと感じます。これまでも「先進事例」はありましたが、他の健保組合でも再現可能な「知見」とすることがネックでした。まずは、日常業務の中で、「これはうまくいった」というポイントを選び、書き留めることから始めてみてください。これが、標準予防の実現に向けた一歩になります。